なぜかしらないけど、近代西洋が脱呪術化を行った(かのように見える)ということを内省的に了解していくということが、つまり、世界の文明の総体的な理解になるんだよということ。そしてそこに人類意識に課せられた課題があるんだよということが、ヴェーバー先生わかってしまったということ。
もちろん、そんなの比較文化論でもわかるし、オリエンタリズムみたいな視点とかカルチャラルアホーズみたいな視点からでもわからないでもない、みたいなフラットなことも言えるけど、その手のポストモダンな阿呆どもは、その内在に潜む倫理性の魔みたいなものを前提に無視したから、むしろ世界の側の力に圧倒されるか、「知性」というかいうお商売に隔離されてしまい、学が学たらんとする世界に起立する意志を失ってしまったのな。
で、ヴェーバーは、ほいじゃ、このEntzauberungに前段として、理解社会学とはどういうものかというのを示すためにプロ倫を書いたわけですよ。
で、理解社会学が恐ろしいのは、これをよく主観とか阿呆な理解されがちなんだけど、数値客観とかすると実はそのインタプリテーションは主観的云々というループになる。で、ヴェーバーのいう理解というのは、英語でも、understandingとかinterpretationとかに誤解されるけど、そうじゃなくて、エートスというのが一種の社会意識という特殊な実在性の問題だということ。というか、およそ、存在の意味性の根拠性は、この社会性の意識のなかにある。このあたりは、言葉というものの命名の不思議を考えると、愕然としてくるものがある。
ということで、基本的に現象学的な構図を持っているんだけど、べたにその方向で進めたシュッツとかは、まあ、ダメ。また、反対にパーソンズとかも一種の神学にしてしまった。