SNSって、差別の濃縮ツールとしても機能しちゃうんだなあと福島に関するtweetを散見しながら思った。
炎上で被害感情が生じたところに一定数の賛同が集まると、1000の衆愚の非難よりたったひとにぎりの賢人の賛同みたいな選択されたヒロイズムが生じて、取り返しのつかない有様に差別が濃くなってしまう。
デマや感情論を種にして、炎上と賛同を経て生まれ出づる「正義」に対する解毒策って、現状のSNSツールにはあるんだろうか。
「どれだけ非難されても、たったひとりでも僕の真意をわかってくれる人がいる限り、僕はつぶやき続けるよ!」的言説が、確信犯を生む「正義」に陥るあやうさはたしかにあって、そうした少数意見をファシズムの対抗言論として社会の中に常に持っておかなくてはいけないだけに、単なる個人の情報発信リテラシーを越えた自省の仕組みがSNSツールそのものにあってもいい気がする。
炎上で被害感情が生じたところに一定数の賛同が集まると、1000の衆愚の非難よりたったひとにぎりの賢人の賛同みたいな選択されたヒロイズムが生じて、取り返しのつかない有様に差別が濃くなってしまう。
デマや感情論を種にして、炎上と賛同を経て生まれ出づる「正義」に対する解毒策って、現状のSNSツールにはあるんだろうか。
「どれだけ非難されても、たったひとりでも僕の真意をわかってくれる人がいる限り、僕はつぶやき続けるよ!」的言説が、確信犯を生む「正義」に陥るあやうさはたしかにあって、そうした少数意見をファシズムの対抗言論として社会の中に常に持っておかなくてはいけないだけに、単なる個人の情報発信リテラシーを越えた自省の仕組みがSNSツールそのものにあってもいい気がする。
日曜日, 1月 15th, 2012